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画家浜口美和が志したもの、残したかったものとは?

経歴のご紹介
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浜口美和は筆者の母になりますが、あと数日でもう一つ歳を重ねる事ができたのですが…残念ながら叶うことなく昨年(2021年)12月23日に90歳で永眠いたしました。

皆様へのご報告が遅くなり誠に恐縮ではありますが、旅立ちから一年が過ぎ一周忌を終えるにあたり表題の件をまとめて置きたく存じます。

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画家として志したもの

浜口美和は女学校の時代に第二次世界大戦を経験し厳しい生活を余儀なくされたようですが、そんな中でも、三人姉妹の二女である筆者の母は日本画を描く父親の影響で絵が得意だったようですが、長女は文筆が得意、三女はピアノが得意であったようで、姉妹のなかではお互いに負けず嫌いで頑張らければならない環境にあったようです。

母は戦後10年経つか経たないかの頃に結婚をして二人の子供を産み子育てが一段落した後に武蔵野美術短期大学に入学をし、卒業したのは30代後半でした。

そのため画家のスタートとしては遅咲きにはなりますが、画家として何を志していたのかをまとめたく存じます。

お金への執着心は無かった

主婦画家であるが故に、「お金のために絵を描く」わけではなく、自分が画家活動をする上でお金が必要なために絵を売っていたように感じます。

もっとも絵が売れていたという事は同業者との間に軋轢を生み、かつ「やっかみの目」で見られていたかもしれませんが…

洋服にしてもアクセサリーにしても高額なものは身に着けず、どちらかというと安く買ったアクセサリーが高く見られる事に喜びを感じていたようです。

また大戦を経験した事もあり一度買ったものはなかなか捨てる事ができず、介護付き有料老人ホーム入居時に実家を整理した際に、母親の持っていた大量の洋服をBookOffに持ち込んだのですが、ほとんど買取対象にはなりませんでした。

唯一購入していたのは好みに合った陶器類でしたが、これも30~40点ぐらいで、さほど高価なものはありませんでした。

なお三女が別荘を買った時には少し購入を考えたようですが、結局買わずじまいで終わりました。
恐らくそんなお金があれば別の事に使いたかったのだと思います。

それでは「母親は何のためにお金を使ったか?」なのですが、それは殆ど自分自身の画家活動に使い、つまり絵で稼いだお金はほぼほぼすべて「絵に関わる社会の仕組み」に再投資していた形です。

それは具体的には国内や海外での個展の費用だったり、自前のカレンダーだったり、雑誌・書籍への掲載料や、画材などになります。

再投資をする理由は、50歳から60歳にかけて画家としてのスタイルはある程度決まってくる中で、一部の方には存在を知ってもらえてはいましたが、その他多くの方々に対して「自分自身の認知度をいかにしてあげていくか?」と言う課題に対しての唯一の解決手段だったのだと推測されます。

浜口美和の「画家としての最終的な志とは」何だったのか?

思うに画家であれば名声とか蓄財を除いて「世界中の人に自分の絵を見て欲しかった」とか、「自分を見て何かを感じ取って欲しい」という思いはある事と存じます。

門外漢である筆者には当然「画家の本当の志」を見抜く事はできませんが、ただ負けん気が強いだけに、画家の中では上の一番になりたい・名声を博したいとは思っていたはずです。

そのために稼いだお金はほぼほぼ画家活動に費用に回して名前が浸透するように考えてたはずです。

しかし『浜口美和「二紀展」出展作品集』の中でご紹介したように「二紀会での蹉跌」があり、名のある公募展で道を上り詰める事ができなくなってしまい、そのルートから名前を広める事が出来なくなってしまいます。

年齢的には40代後半であり、一般的に高齢でも作品を作り続ける事ができる画家としては、まだいくらでも可能性はあったはずですが、このつまずきは遅咲きである浜口美和にとっては焦りにつながったものと思われます。

その後、女流の公募展では役員への就任や幾多の賞をいただく事ができましたが、それだけでは飽き足らずに様々な海外志向の美術交流団体に入っては離れ、入っては離れを繰り返します。
※このあたりの遍歴は「浜口美和が所属した主な海外志向美術交流団体の遍歴」をご参照いただければ幸いです。

なぜ「世界」なのか理由はわかりませんが日本だけで留まりたくはなかったようです。「今に見ていろ」という気持ちが働いていたのかもしれません。

ただし「主婦画家」という立ち位置に身を置いてきたために、また今のようにSNSで情報発信するような手段も才能も持っておらず、お弟子さんを抱えるでもなかったので、おのずとその活動には限界がありました。

限られた範囲での波紋しか作り出せずに終わってしまう事にはなるのですが、負けず嫌いもここまでくれば立派ではあったと思います。

ただし残念ながら、結局のところ母は「青雲の志」を抱いてしたわけではなかったように思います。もっとも本人に確かめたわけではありませんが…

画風として残したかったものとは…

浜口美和はシャガールやモネ、ルノアールやマリーローランサンなどのような作風を取り入れながら「人とは違う画風」を志したものと思われます。

1980年代後半、年齢的には50代後半からが画風としてのまとまりが出来てきて、作品のタイトルにサブタイトルを付けるようになります。

主に朱葉会に出品した作品になりますが、1987年~1988年「万物流転」、その後1989年に「自然との会話」をタイトルにした一連の作品を世の中に出して行きます。

2000年代は70代に突入したせいかタイトルの付け方に少し揺らぎが起きて、画風としては「自然との会話」ながらサブタイトルを付けない年が2回ある他に、2010年~2011年は自然へのオマージュとしますが、その後は「自然との会話」に戻ります。

この50代後半からの「自然との会話」という画風はどのような思いから生み出されたのか?を考察するため、3つ程資料を下記に引用いたします。

まず最初は70代になっていますが、2001年2月21日付け新美術新聞(株式会社美術年鑑社発行)の浜口美和油絵展「自然との会話」の紹介で次のように記者が母から聞いた言葉を引用して記事にしています。

透き通る青や緑の色彩が印象的な洋画家浜口美和の個展が開催される。

自然に生きる動物や草花、人などをモチーフに、宇宙の神秘を描きあげるその世界観は「カラタチや家の木などに囲まれ育った幼少期の環境が原点にある」という。流れの中で肩ひじを張らず描き続け四十年ほど、現在、自宅にも椿や梨、ぶどうなどの木があり、集まってくるヒヨドリや鳩なども、格好のスケッチ対象になっているそうだ。

光や風をも感じさせるその画面には、自然の恵みを大事にしてほしいという浜口の思いが響き渡っている。

「肩ひじを張らず描き続け四十年」というのは少し盛っている気がしますが、子育てがひと段落して武蔵野美術短期大学に通う前から絵を本格的に書き出したという事になります。

「自然に生きる動物や草花、人などをモチーフに、宇宙の神秘を描きあげるその世界観」の原点が幼少期の環境にあり、その後も身近な自然に触れながら培われたものであるようです。

次に2年後の、2003年8月1日付「日中文化交流」第683号(日本中国文化交流協会発行)のコラムで「自然との会話」という題名で浜口美和本人が次のように書いています。

私のモチーフは、自然の神羅万象。特に神秘的な森や木が好きです。私は身近なものを、よく見、五感で感じ作品を創作します。人間は実際に経験することで、よい作品も出来ると思います。

… 以下省略 …

高度成長期からバブルの崩壊を経て二十一世紀に入り、リーマンショックの後に中国の台頭という世の中の流れの中で「自然との会話」をキーワードにした作品を世に残してきた訳ですが、地球温暖化対応など自然を見直す時代的な背景にマッチした画風になっていたと思います。

最後に、「浜口美和掲載美術誌アーカイブ」でもご紹介している「美術の窓1999年1月号」Vol.185(株式会社生活の友社発行)に掲載されている紙面を下記に引用いたします。

1999年1月号
Vol.185

巻頭特集Part3
20世紀美術セレクション~現代の日本美術を考える

モチーフのこと
「自然との会話」シリーズを描いて、何年になるでしょうか。気質として、人工的なものより自然の形態に心惹かれる私は、足元の雑草から宇宙の大きな広がりまで、自然の豊かな素晴らしい魅力を感じます。そして神羅万象に畏怖の思いを持つと共に、自然こそ、ハイ・テクノロジーではないかと思います。
自然は私が成長すれば、それに従って、いくらでも美の扉を開いてくれます。こんな自然・地球を大切にと願う気持ちで一ぱいです。

「自然との会話(森からの風)」1996年 100S

画家が自然をモチーフにする事は多いわけですが、その中でも自然を切り取るだけではなく、「自然を含めたこの世の中の不可思議さ」「神秘性」を身近にある自然と触れ合いながら、絵の具を塗り重ねた中に書きしるそうとしていたのではないか?と思います。

何枚の絵を残したのか?

残念ながら「いつにどれだけの枚数を描いたのか?」という正確な記録は残っていません。

そのため推測するしかないのですが、あまりザックリとした数を挙げても信憑性に欠けるので今回は足し上げによる計算をして見る事にします。

個展の回数から

個展を開くとなると20~35点前後の作品が必要となる認識ですが、個展の案内文の中に点数を明記している場合もあり、個展と言ってもグループ展や海外などもあるので可能な限りそれらを考慮しながら推定しています。

開催年種別推定数
1969個展25
197425
197825
19792人展10
1984個展25
199225
199425
1996
グループ展
2
2
開催年種別推定数
1997
個展
30
25
1998
個展
グループ展
30
2
1999
個展
20
20
200125
2002海外個展10
2003個展35
開催年種別推定数
2004グループ展2
2005

グループ展

2
2
2
2006個展35
200720
2012

海外個展

10
10
10
合計 454

個展の回数から枚数を試算すると454点ぐらいになりますが、「当たらずとも遠からず」ではないか?と思います。

※把握しきれていない個展があるかもしれませんが、現状把握できているものをベースにしています。

※同じ作品を別の個展に出品している可能性はありますが、取敢えずそれは考慮せずに合計しています。

公募展への出展数

浜口美和は公募展向けの大きな作品は1枚2~3か月ぐらいの時間を賭けていました。色を重ねて塗る技法だったのでそれなりに時間が必要だったようです。

なお出品枚数につきましては推測ですのでお含み置きください。
※公募展には基本的に2作品づつ出展していましたのでそれにもとづき算出しています。
※海外志向の美術交流団体の所属期間は明確に解っていないものもありますが、最長で計算しています。

団体/展名出品期間総枚数
二紀会1965~201194
女流画家協会1969~197820
朱葉会1982~201466
大田区在住画家美術展1988~201658
団体/展名出品期間総枚数
日本国際美術家協会1976~199132
国際現代美術家協会1986~19886
日本選抜美術家協会1992~200120
日本の美術全国選抜作家展1997~201028
サロン・ブラン美術協会2002~201426

総数としては350点前後になります。
※公募展は未公開作品を出品するのが原則ですが、手直しを施して別の公募展に出品する可能性はあります。実際に残されている絵のキャンバスの裏面に複数の公募展の出品タグが付いているものがあります。ただし今回はそのような事は考慮せずに合計しています。

それ以外の点数

個展以外の売り絵をどのくらい描いていたのか?はまったくの推測でしかありませんが恐らく年間10~20点ぐらいだったのではないでしょうか?

しかもコンスタントに売れ出したのは美術誌に掲載され出した1989年以降になるのでおよそ25年ぐらいの期間になると思います。

などいろいろ考えると「多くても400枚ぐらいなのでは?」と思います。計算式は以下の通りです。

(10+20)/2=15点   15×25年間=375点  それ以外の年で+25点

総点数の推計値

これらをすべて合計すると最大での想定で1,204点になります。

最後に:絵を描けなくなってから

父親によると2015年頃キャンバスの前に座ったまま何も描くことができないで過ごす日々が続いていたようですが、2016年に病院でアルツハイマー型認知症と診断されて薬を処方されて5年近く過ごした事になります。

80代後半の2017年夏からサービス付き高齢者住宅に住みますが、施設のスタッフに促されて数枚の簡単なデッサンを残していますが結局1枚も絵を描く事はありませんでした。

残されたデッサンは浜口美和のタッチで描かれているものがあり、体の機能として描けないわけではなく、頭の中でイメージを維持構成し、絵に書き起こすところが失われていたものと推察されます。

ただ部屋の中に残されていたメモ用紙につぎのよう書かれていました。(入居後何時書いたかは分かりませんが本人の筆跡であることは間違いありません)

そのような気持ちはあったものの、翼の折れた鳥のごとく、二度と絵を描く事は無くこの世を去る事になりました。


以上最後までご一読いただき誠にありがとうございました。